安藤百福氏死去 日清食品創業者会長
<訃報>安藤百福さん 飢えからの解放決意…破産乗り越え
日清食品創業者会長の安藤百福さん死去 即席めんを開発
子供のころから、親には怒られてましたが、インスタント食品、好きでした。
チキンラーメン、出前一丁、カップヌードル、どん兵衛、UFOと、食べたものは数知れず。
子供のころは、なぜか「カップヌードルのコマソン」がちゃんと歌えたそうです、私。
レトルト食品の害についてはいろいろとありますが、それでも世界中がカップヌードルを食べられるといった、日本のラーメン文化が広がった立役者でもあるといえます。
記念館の仕事があり、少しだけこの方にお会いできたのですが、目力ありました。
金儲けだけでなく、社会貢献ありきの姿勢、いまの時代には必要なことかもしれませんね。
こころよりご冥福をお祈りします。
安藤百福氏死去 日清食品創業者会長 [ 01月06日 00時58分 ]
安藤 百福氏(あんどう・ももふく=日清食品創業者会長)5日午後6時40分、急性心筋こうそくのため大阪府池田市の病院で死去、96歳。台湾生まれ。葬儀・告別式は近親者だけで執り行う。社葬の日時や場所は未定、喪主は妻仁子(まさこ)さん。58年、即席ラーメン第1号の「チキンラーメン」を発売。71年に容器入りスナックめん「カップヌードル」を出すなど、日清食品を業界最大手に育て上げた。
(Excite エキサイト :社会ニュース|共同通信)
<訃報>安藤百福さん 飢えからの解放決意…破産乗り越え [ 01月06日 01時12分 ]
「食足世平(しょくそくせへい)」。世界中で年間857億食が消費される即席めんを創造した安藤百福(ももふく)さんは、自身が作ったこの四字熟語を好んだ。直訳すれば、「食が足りて初めて世の中は泰平になる」だが、安藤さんが込めたのは、「食を通じて世の中の役に立つ」という決意だった。日清食品の企業理念でもあるこの言葉は敗戦後、焦土と化した大阪の街で、安藤さんが自身に立てた誓いであり、破産という人生の逆境で不死鳥のように蘇るエネルギーでもあった。
安藤さんは敗戦で、集荷・問屋会社などの事業の大半が灰塵に帰したが、「戦後復興にはまず飢えから解放だ。食からすべての建設は始まる」と決意、食品事業を起こす。事業は順調だったが、懇願されて理事長に就いた信用組合が倒産し全財産を失なった。46歳だった。
「今となっては、あの空白の時間が新事業のために必要だった」と安藤さんは語っていたが、家内労働で細々と営まれていたラーメンの大規模工場生産という前代未聞のアイデアは、この時期に醸成された。
2年後の58年8月25日、世界初の即席めん「チキンラーメン」は1袋35円で売り出された。うどん玉1個6円の時代。流通関係者の評判は芳しくなかったが、「お湯をかけて2分間」とうたって有名百貨店で実施した試食キャンペーンが女性たちから支持された。「即席めんは主婦の解放に役立った」。
経営者としての安藤さんが尊んだのは独創性だった。他の追随を許さない独創を支えたのは好奇心と観察眼だ。今や即席めんの代名詞にもなっているカップヌードルは、スーパーの担当者がチキンラーメンを二つ折りに紙コップに入れて試食したのをヒントに開発された。
01年には宇宙食ラーメンの開発に着手。宇宙飛行士、野口聡一さんが05年に搭乗した米国スペースシャトル「ディスカバリー」に持ち込まれた。「対立する国の人とも、同じ宇宙空間でラーメンを食べられるなんて夢がある」と喜んでいた。
「商品はあくまでオリジナルでなければ成功しない。他人がやっているからでは決して成功しない」と安藤さんは力説した。
◇4日に年頭所感
安藤さんは前日4日午前に同社の大阪本社で開かれた仕事始めで社員に向けて所感を述べ、その後は新年のあいさつに訪れた来客者の応対をした。その際、時折せきをする場面があり、風邪気味だったという。同日昼には、役員を交えた昼食会で、おもちを入れた同社製品のチキンラーメンを食べたという。5日昼過ぎ、体調の不良を訴え、午後3時ごろに大阪府池田市の自宅から同市立池田病院に搬送された。
(Excite エキサイト :社会ニュース|毎日新聞)
日清食品創業者会長の安藤百福さん死去 即席めんを開発
2007年01月06日01時08分
日清食品の創業者で即席めんを開発した創業者会長の安藤百福(あんどう・ももふく)さんが5日午後6時40分、急性心筋梗塞(こうそく)で亡くなった。96歳だった。葬儀は近親者のみで行い、社葬の日取りは未定。喪主は妻仁子(まさこ)さん。
日本統治下の台湾生まれ。日本に渡り、繊維問屋などを営んだ。34年に立命館大学専門学部を修了。製塩業、金融業など様々な事業をしながら、48年、日清食品の前身にあたる貿易や卸問屋を営む中交総社を設立、社長に就任した。
戦後の焼け跡でみかけたラーメンの屋台の印象が強烈だったことから、自宅の裏庭にこしらえた作業所で57年初めから即席めんの試作に取り組んだ。翌年、商品化に成功し、インスタント食品の草分けである「チキンラーメン」を発売した。社名も日清食品に変更した。48歳の時だった。その後もカップ入りの即席めん「カップヌードル」など数々のヒット商品を発案、同社を世界10カ国で年間100億食を生産する世界一の即席めん会社に育てた。
81年に社長を長男に譲り会長になったが、2年後再び、社長に復帰し会長と兼務した。85年に次男の宏基氏を社長に据え、会長に専念した。晩年も自社の商品への愛着は人一倍強く、すべての商品の味見をしていた、という。92年、森永製菓が「チキンラーメン」の名称を用いたスナック菓子を発売した時は、「チキンは我が社の原点」として争い、販売停止に持ち込んだ。