関西にはほぼ毎週末帰省。そのまま○鋼病院へ直行。
もう、宣告を受けて最後の踏ん張り(今だから言えますけど)の父を見舞う。
週末は私がほぼ担当だったな。
このころには食事を拒みだし、本人も覚悟したのかと思ったりしていたが、それでも、ここでくたばられては、マジで困ることもあったので励ましたり、話をしたりというばかり(実際はもうひとつあったのですけどね)。
外は毎日40度近くまであがる天気。
その中、熱射病、日射病との戦いを家族はしつつ、父の按配を心配しているしかなかったわけ。
正直、このころには、墓へは2度行き、母と綿密に掃除をしている。
裏では、最終の事態に向けて、調整をしていた。
場所、時間、規模、連絡方法などを実妹を含め、やっていた。
次妹にはとある事情で言わなかった。
すごくつらいが、ある程度決めておかないとその後の行動が遅れると、かえって回りに迷惑をかける。
その辺は、某家に嫁いだ妹の捌きには、感謝しかなかった。
とかやっていると、小康状態になったので、いったん帰る。
ここから3往復しているが、それもこの状態では仕方がない。
いまからすれば、逝去からの動きはスピーディすぎて勤め先の周りからは文句まで出た始末。
というのをある人のところを見ながら感じている次第。
着実な彼ならば、おそらくそういった面も準備しているだろうが、両面で考えなければいけない局面に立ったことが見て取れたが、どうだろう。
そんなことを聞ける由もないが、もう終章に入っているように思えるので、その辺、コメントもしづらくなってきている。
がんばれ、身体も大切に としかいえないのも事実。